過酷な修行に耐えることの出来る人のみが参加を許可された、聖護院宮入峰道の全ルート(250キロ)。140年ぶりの修行は南奥駈へと踏み入ります。ここから写真家の松井さんは、よりリアルに被写体と向き合う為にフィルムをモノクロームに変えて撮影しています。 |
修験道の開祖は役小角。役行者とも呼ばれますがこれは尊称です。飛鳥時代に葛城山麓に住んでいた山林修行者で空を飛んだり、鬼を使ったりしたという超人的な伝説が語られます。仙人のような人だったのでしょうか。「続日本紀」にも記されていますから実在した人物だったのですね。役行者が根本道場と定めたのが大峯。そして、役行者によって開かれたのが奥駈道なのです。行者の教えは山に入り、滝に打たれてさまざまな身の痛みを実感し、体験することから精神を高めていこうというものです。山は修行者にとって法体そのもの。一木一草全ては神仏の顕れですから、山と一体になることはとても大切なことだといいます。
西洋的な登山とは全く違う目的だと言えそうですね。修験では山を征服するということは決してありません。山へ入らせていただくと言います。毎年、同じ山へ登り、心と体を清めるのです。「さぁーんげ、さぁーんげ、六根清浄」と合唱しながら険しい山を何日も歩き続けていきます。山の清らかな空気と水、粗食は眼耳鼻舌身意を洗い流してくれるのでしょう。一度奥駈に参加すると「奥駈病」にかかるといわれます。便利で快適な暮らしを一度見直すことは心と体に大きな影響を与えるのかもしれませんね。
さて、今回は名だたる修行場、前鬼の登り返し。折角下りた山道をまた黙々と登ります。両童子岩、二つ岩から蘇莫岳へ。仏教にちなんだ名前の多い奥駈道で雅楽の曲である蘇莫という名がどうしてこんな深い山につけられたのでしょう。蘇莫という曲は秘曲として特定の家の人しか舞わないといわれています。動きが激しく、仮面を被った舞人と横笛を持った貴人が登場します。横笛の貴人は「太子」と呼ばれ、聖徳太子だの説があります。梅原猛によると、失意に死んだ太子の霊が活動する場面だと「隠された十字架」の中に書いています。蘇は蘇我氏を表し、莫は無くなるという意味があるともいい、太子説にもさまざま。又、一説には聖徳太子とは関係がなく、大峯の山伏と山神という説もあります。山頂には舞台石と呼ばれる大きな岩があり、ここで舞ったと言い伝えられていますが、何とも優雅なことですね。いずれにしても大峯山の歴史の深さを物語る名付けには違いありません。
厳しい女人禁制が敷かれていた大峯奥駈の中に「嫁越峠」と呼ばれる峠があります。これは十津川から北山村へと嫁ぐ花嫁のために作られたといいます。女人禁制は男尊女卑の表れではなく、女性を守るために作られたという説がありますが、その根拠となるのがこの嫁越峠。遥か昔、山で狩猟する時、その一団に女性がいて、月経だったりすると狼に血の匂いを嗅ぎ取られて襲われてしまう可能性がるからというのです。そこで、女性だけは山の一番深いところまで入れず、待機させてその間は休息させていたのだろうという説もあります。注目したい説ではないでしょうか。
食事ができる、休むことができるなど下界では当然のことがここでは何とも有難いこと。奥駈修行を支えていただく宿の方々に感謝をしつつ、持経の宿での一夜を過ごします。
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