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2007年
3月 弥生

春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣干したり 天の香具山 : 持統天皇

 6月といえば雨。紫陽花、梅雨、黴などが思い浮かびますが、本格的な梅雨までの間は案外快適な時節でもあるのです。新緑は日々その色を深め、真夏の緑の一歩手前という風情も心惹かれます。
 それに、6月1日は衣替え。制服が一斉に白く輝きます。最近は、温暖化の影響でしょうか、5月に真夏日があったりして季節の境目があいまいになってしまいましたが。
 今回は持統天皇の御歌。万葉集に興味のない人でも知っているあまりにも有名な歌です。百人一首にもなっていますが、そこでは「春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干してふ 天の香具山」となっています。「来たるらし」が「来にけらし」、「衣干したり」が「干すてふ」に変えられています。これは選者藤原定家の好みによって改作されたと言われています。万葉集の「来たるらし」は「夏来至る」ということですから、夏が今そこに来ているという意味で、春はもう過ぎてしまったということではないのです。春が今まさに過ぎ去ろうとしていて、そこに夏が来ている、ちょうど春と夏の間合いに立っているのですね。
 春過ぎて夏が来るのは当たり前です。持統天皇が詠みたかったのは微妙な季節の移り変わりの境目のことだったのではないでしょうか。定家は「来にけらし」と完了の助動詞、過去の助動詞、推量の助動詞を使うことで来てしまったらしいという意味に作り変えています。「衣干したり」も「衣干すてふ」に変えられています。万葉集では「干している」という実際目にした事実を歌っているのに対して、「てふ」(といふ)という伝聞の言葉に置き換えています。
 これは、写実的、直観的、感覚的、空間的な万葉集の歌をあくまで伝聞という想像の世界に置き換え、観念的、理知的、時間的な歌に作り出しているのです。万葉時代と平安時代の好みの違いということでしょうか。
 歌の意味としては天の香具山に真っ白な衣が干してあり、緑の香具山との対比で夏の到来を歌い上げているということが一般的なようです。
 しかし、天の香具山に衣を干すというのはどういうことでしょうか。わざわざ山麓まで持って行って干したのでしょうか。しかも香具山へ。洗った衣を干したのかそれとも虫干しか、なんて疑問まで持ってしまいます。ある化学会社の人によるとこれは晒の情景ではないかというのです。真夏では紫外線が強すぎるのでこの春と夏の間こそが最も適しているそうです。では、どうして香具山なのでしょう。しかも単なる香具山ではなく天の香具山に。
 耳成、畝傍とともに大和三山と称される香具山ですが、三つのうちで香具山だけが「天の」という冠をいただくことができる特別の山です。香具山は天皇が国見をする山であり、天に近い、もしくは天から降りてくる聖なる山であったのです。そうすると、春の神事を済ませた人々が儀式に用いた衣を干している光景ではないのかという説も説得力があります。
 日本人にとって、季節を見極めることは農作物の実りに欠かせない重要事項です。そして、その暦が入ってきたのは持統天皇の時代といわれています。日本書紀の持統4年11月の条には「勅を承ってはじめて元嘉暦(げんかのこよみ)(中国宋時代元嘉年間にできた暦)と儀(ぎ)鳳暦(ほうのこよみ)(唐の暦で儀鳳年間に伝わったもの)を使用した」と記されています。暦を取り入れ、これに基づいての節日を定め、儀式も行われるようになった頃ということを考えると、この歌が単に季節の情景を歌ったものではなく、時や季節を掌中にした持統天皇の高らかな国を治める歌ともとれそうです。
 さまざまな儀式がこの時代から始められていったのですね。当時、世界の中心であった天の香具山から季節の移り変わりさえも統べる力を持ったと知らしめたのかも知れません。   
こんな風に見てくると、春から夏への瑞々しい季節と清冽な時代の息吹が重なって何とも力強い歌に感じられるものですね。

  • 十薬(ジュウヤク)

メールにもちょっと時候のあいさつ

庭の紫陽花が咲き始めました。雨に濡れると一層きれいです。

庭の雑草、抜いている後ろからすくすく育って、もう全く!

6月といえば雨を連想してしまいます。うっとうしいけれど、雨の日は女を美しく見せるらしいですよ。湿度が肌にはいいのだとか。せめてそう思って梅雨を乗り切りましょう。

晴れたら暑いし、雨ではうっとうしい。でも降ったり晴れたりの変化があればこそ木々は緑を豊かにするし、稲も育つのですね。雨の日を楽しく快適にする工夫、考えてみます。何かアイデアがあれば教えてね。

紫陽花を見に行きたいと思っているのですが、かんかんに照った日より雨模様の方がいいなあなんて思っています。誰か雨女、雨男を誘って。

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