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暮らしの歳時記2014秋

葛城山麓の秋

今年の夏は雨の多いこと、驚くほどでした。全国各地に大きな災害をもたらしましたが、ゲリラ豪雨はどこで降るか分からないだけに困ったものです。秋は台風シーズンでもありますが、今年だけは日本を避けてくれるように祈るばかりです。もうこれ以上の災害がありませんように。
日が少しずつ短くなり、秋風が立つと虫の競演。やがて木々が色づき風に舞っていきます。そんな季節に足を運びたいのが葛城古道。奈良盆地の東の山裾を南北に通る山の辺の道は万葉集や日本書紀にも記され、良く知られていますが、葛城古道はそれよりもっと古い古代の道です。
 大和と河内を隔てる金剛・葛城・二上山の連山は古くから三輪山とともに神の山として畏れ、崇められてきました。今、南の山を金剛山、北を葛城山と呼ばれていますが、昔は二つを合わせて葛木の山と呼んでいたようです。葛城の地名は「日本書紀」神武天皇の巻に記されています。現在の高天神社あたりといわれる高尾張邑には身長が低く、手足が長い人々がいて、天皇に帰順しなかったので葛で網を作って捕えたと書かれています。一言主神社境内には「蜘蛛塚」がありますが一体どういう人々だったのでしょう。土蜘蛛族は備後、肥前など他の土地にもいたようですが、能の「土蜘蛛」など今に伝わる土蜘蛛は葛城が舞台。土蜘蛛と呼ばれる人々は大和朝廷の命に従わず、抵抗して滅亡した人々です。葛城の土蜘蛛が今にまで名を残すのはそれだけ力があったからだといえます。子供のように身長が低く、手足が長かったからの土蜘蛛のほか、神武天皇が大和を平定する以前から土着していた人で岩穴に暮らしていたことから「土籠る」と呼ばれ、やがて土蜘蛛となったとの説もあります。いずれにしても戦いに敗れ去った魂を慰め畏れて鎮魂のために塚を建てたのでしょうが、千数百年を経てその名残が伝えられるということに感慨を深くしてしまいます。
 では、秋風に吹かれて歩いてみましょう。
近鉄御所駅から六地蔵まで行き、いよいよスタートです。近くに「櫛羅」の地名看板があります。読みの難しい地名です。クジラと読むのですが、どういう意味?と思いますよね。かつてはこのあたりも海で鯨が獲れたなどという説もありますが、御所市の案内ではかつて弘法大師がこの辺りを訪れ、近くの滝を見て天竺にあるクジラの滝に似ているところから供尸羅の滝と名付けたそうです。ただ「尸」の字は屍のことで縁起が悪いということから櫛羅となったとか。そう、六地蔵のあるあたりは櫛羅の里です。「猿目橋」バス停の近くに巨大な岩がでんと座っていて、ここに6体のお地蔵さまが刻まれ、口元には微笑みもみえます。ずいぶん風化していますが、やさしい表情でずっと人々を見守ってきたのですね。
六地蔵は六道輪廻を守るお地蔵さまとして、または町の境界を守るとして信仰を集めたようです。各地に六地蔵はありますものね。歩いていると足元の草や実った稲の上を飛ぶトンボに出会ったりします。田んぼの中にぽつんと番水時計が立っています。これは貴重な水を田んぼへ流すための時計です。かつては命をかけて水を争った時代がありました。人々の折り合いをつけてきたのがこの時計だったのです。何やら時代から取り残されたように立つ姿は秋の風景に溶け込んで印象的。  あぜ道の先に見えてくる閑静な趣のお寺は九品寺です。行基が開き、後に空海が再興した由緒ある寺院。寺の裏山にある千体石仏で知られる寺院です。すっかり風化してかろうじて石仏だと分かるものもありますが、どれにも赤やとりどりの前垂れが掛けられ、静かに落葉を受けています。ただの石も人の手によって仏となり、数百年の時を刻んでまた石に還っていくのでしょうか。かろうじて仏の姿に踏みとどまっている姿に思わず合掌。山門前の十徳園は手入れの行き届いた庭園だし、振り向くと大和盆地が一望できて大きく深呼吸したくなります。
 いかにも古道らしい道を歩くと一言主神社へ。雄略天皇の時代のお話しが残る古社です。天皇が青い着物に、赤い帯を締めた家来を連れて山で狩りをしていると向こうから全く同じ格好をした一団がやってきました。「この国に天皇は私一人しかいないのに一体誰だ」と言いますと、全く同じ答えが返ってきました。天皇は怒り、矢をつがえて「名を名乗れ」といいますと「私は善事も一言、悪事も一言で言い離つ神」と答えたのです。天皇は驚き畏れて、供の者の衣服を脱がせ、神に捧げました。その時、神はポンと手を打って受け取ったそうです。それが拍手の始まりとか。そんな風に神話がすぐ隣で息づいているのがこの古道の大きな魅力でしょう。
 そしてここには大きな銀杏の木があります。樹齢1200年とも伝えられる巨木で、幹には気根と呼ばれる突起がたくさんあります。これを乳と呼んで子授けやお乳が出るようにとの信仰を集めました。落葉すると境内は金色に染まりそれはそれは美しい風景です。この境内の一角にあるのが「蜘蛛塚」。幾重にもつみかさなった歴史が何よりの彩として金色を深くしているのかも知れません。  名柄の集落は古い落ち着いた街並みが続きます。中でも目を惹くのが中村家住宅。江戸初期の建物と伝えられ、名柄代官の家だったとか。非公開ですが、外からでも一見の価値ありです。近くには長柄神社がありますが、ここもまた古いのです。天武天皇がここで流鏑馬をしたという話が「日本書紀」に残っているのですから。
 町中から再びあぜ道へ。しばらく行くと橋本院へ出ます。静かで落ち着いたお寺はいつ来ても何かの花が咲いていて素敵。秋には7コウヤボウキ、ツリガネニンジン、ホトトギスなどがひっそり咲いているでしょう。このあたりは奈良の北海道と言われるほど寒さの厳しいところ。山からの清らかな水と寒冷な土地で採れる農作物はとっても美味。特にお米は「吐田郷米」として知られているのです。
 境内を抜けて行くとやがて極楽寺。門の上に鐘楼があるという珍しい造りです。東側にはヒビキ遺跡が発掘され、豪族葛城氏の王宮ではないかと話題になったことも記憶に新しいこと。境内からの眺望もすばらしく、奈良が盆地であったことを今更ながら知る思いです。
少し行くといかにも古社の雰囲気を漂わせる高天神社です。天孫降臨地“高天原”として九州説と並ぶ場所。創建年代が明らかではないほどの古社で奈良時代の宝亀10年(779)の記録にはすでに名前が記されているといいます。杉の老木に囲まれ、苔むした鳥居などいかにも神々が宿る地を実感させてくれます。
神社の前には伝説の鴬宿梅があります。その伝説とは、その昔、高天寺で修行していた僧が若くして亡くなった時、その死を梅の木のそばで嘆いていた師に鶯が飛んできて「初春のあした毎には来れども あはでぞかへるもとのすみかに」と鳴いたのでした。以後、この梅の木は鴬宿梅と呼ばれるようになったとか。弟子の死を悼んでいた師には鶯の泣き声がこんな歌として聞こえたのですね。そんな伝説もすなおに信じられるそれがこの古道の力でしょうか。
さて、いよいよ古道も終盤のクライマックスです。高鴨神社はその名のとおり、鴨一族の氏神さま。京都の上賀茂、下賀茂神社の総社にあたります。本殿は流れ造り檜皮葺、唐破風付きで国の重要文化財。境内の池に紅葉した楓が映えてそれは美しい風景です。境内にいると古代の風が木々の枝を揺らしながら身体の中まで通っていく感じがします。
隣接地には葛城の道歴史文化館があり、古道にかんする様々な資料が展示されています。資料館の点前はお蕎麦屋さん。ちょっと一息にもいいですね。
もう一息がんばって船宿寺へ足を延ばしませんか。小高い山の斜面に堂宇を並べ、池泉回遊式庭園が見事。春のつつじで有名ですが、秋は静かに紅葉が楽しめます。

ざっと13キロの道のりでした。葛城古道は国道24号線と並行していますから、途中で国道に出るとバスで帰ることもできます。気楽に自分のコースで歩いてみてはいかがでしょう。



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