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暮らしの歳時記2013冬

 長谷寺は一山に三十余りの堂宇が並び、その歴史とともに奈良を代表する古刹の一つです。その堂々たるたたずまいは春、花によって彩られ、豪壮から典雅へと様相を変えていきます。
堂宇の間を花が埋め、さながら絵巻物。隠国の泊瀬の大気が潤いを帯びてゆるゆる解けていくと_梅や木蓮、山茱萸の花が開き、やがて桜の季節です。山桜、染井吉野、八重桜など約六千本もの桜が“花咲かば堂塔埋もれつくすべし”と高浜虚子が詠んだ通りの風景となります。中でも仁王門横の枝垂桜の見事なこと、立ち尽くして言葉もありません。三九九段の階段が続く登廊、五重塔、そして本堂へ。刻まれた歴史の中に巡る春の花はことのほか心に迫ります。石楠花から牡丹の頃になるとそれはそれは多くの人々が訪れて賑やかなこと。一五〇種七千株もの牡丹が長い登廊の両側に咲き誇り、“牡丹寺”と呼ばれるのもうなづけます。
 中将姫が當麻曼荼羅を織り上げたという当麻寺や姫が糸を染めたという石光寺にも素晴らしい牡丹園があります。歴史ある古いお寺には牡丹が植えられていたのでしょうか。
 中国唐時代は牡丹の花が大変に愛され、花の王と称えられていたようです。玄宗皇帝の寵妃として有名な楊貴妃は牡丹に例えらました。遣唐使によって伝えられたといわれますが、当初は薬として栽培されたとか。中国ではあれほどもてはやされた牡丹ですが、日本でブームになるのはずいぶん時代が下ってから。同じように中国から伝えられた梅はたちまち平城京の人々の心を捉え、万葉集でもたくさんの歌に詠まれているのに比べるとずいぶん差があるようです。古事記や日本書紀、万葉集にもほとんど出てこないようですし、古今集や新古今集にもあまり詠まれなかったと聞きますが、蜻蛉日記や栄花物語、枕草子には少し書かれているそうです。それが鎌倉室町時代から牡丹は絵画や工芸に取り入れられ、牡丹のブームがおこったといわれます。江戸時代になると園芸が盛んになり、中でも牡丹は重要な植物として愛されるようになります。長谷寺の牡丹も当初は薬として栽培され、後に観賞用として育てられたのでしょう。
 長谷寺の歴史は古く七世紀後半に多宝塔が建てられ、八世紀前半には聖武天皇の勅願で徳道上人が十一面観音を祀って現在の基ができたといいます。真言宗豊山派の総本山として信仰を集め、平安時代には王朝貴族の初瀬詣でが後を絶たないほどだったようです。
 最も有名なのが源氏物語ですが、それより二、三十年ほど前に書かれた藤原道綱の母による蜻蛉日記にも長谷寺を描いています。では王朝文学の中に記される長谷寺を少したどってみましょう。
 平安貴族の女性たちは今では考えられないほどの制約の中で暮らしていたことは想像に難くありません。十二単衣という衣装からして大変そうです。ちょっとそこまで、と出かけるのなんてとてもできなかったでしょう。そんな中で物詣では別。参詣は認められた貴重な外出の機会です。清水寺や石山寺と並んで長谷寺は観音信仰の霊場として多くの参詣者が集まります。
 道綱の母は時の右大臣藤原師輔の三男兼家と結婚した女性が夫の不実に悩んだ心模様を綴っています。兼家の求婚、父の陸奥への赴任、道綱の誕生、そして夫の愛人問題への苦悩から母の死、夫の病から村上帝の崩御のことなどを赤裸々に書いていきます。そして長谷詣でのことへと続きます。時は安和元年(九八六)九月の頃。夫には時姫という先妻がいたのですが、その娘が天皇の禊に奉仕する重要な役を受けます。その娘は天皇のもとに入内して女御になるのです。道綱の母にとっては先妻と大きく差をつけられる出来事でした。
 禊という当時の大きな行事を終えてから一緒に行こうと夫は言ってくれますが、道綱の母は自分には関係がないことと、黙って長谷詣でへ出かけます。さて、長谷寺に着くと境内には物乞いの姿やお堂に籠っても傍らでは大声の人がいたりして敬虔に祈る雰囲気ではなく、夢のお告げもこれでは見ることもできないと涙にくれるのでした。道綱の母はどうして長谷寺へお参りしたかったのかというと、そのことには残念ながら触れていません。ただ、当時の貴族社会では女の子を産むのが一家の繁栄に直結していましたから、ぜひとも女の子が欲しいと願ったのではないでしょうか。道綱母の切なる願いは残念ながら叶えられなかったのでしたが王朝文学の一角に名を留めるほどの文章を千年後にまで残したのです。
次は長谷寺信仰を今に伝える王朝文学の筆頭源氏物語。重要な舞台として出てくるのは玉蔓の巻です。蜻蛉日記から二、三十年後のことです。玉蔓は光源氏がこよなく愛した夕顔の忘れ形見。夕顔の突然の死によって源氏は大変哀しみ動揺します。そして、夕顔に仕えていた女たちの運命も嵐の中に翻弄されてしまいました。まだ幼かった姫は乳母によって筑紫の国で育てられます。玉蔓の父は源氏ではなく親友であり永遠のライバルでもある頭中将。夕顔は頭中将の正妻からのいやがらせにあって身を隠していた時に源氏と会ったのでした。九州の田舎で美しく育った玉蔓は土地の豪族から求婚されますが、乳母は我慢ならず、京都へと向かいます。しかし、何の後ろ盾もなく、ただ神仏へ頼るしかありませんでした。そこで向かったのが長谷寺です。「霊験あらたかなことは唐の国にまで聞こえる」と源氏物語の中に書かれるほど有名だったようです。やっとの思いで椿市までたどり着きます。
 宿に入ると後からまた客が来るというので部屋の片隅に寄って幕のようなおので仕切りをし、遠慮深くしています。相客は隣の客に見覚えがあると気づきました。その客こそ姫のことを片時も忘れたことがない夕顔の女房右近だったのです。姫君のお供の者に問いただし、やっと感激の再開を果たします。  長谷寺に参詣するようすを右近は目にします。疲れながらも、姫の後姿の美しいこと、薄物を被りながら、透けて見える髪のみごとなことをながめます。玉蔓は長谷寺へのつてもないので仏前から遠くにしか座れないので右近は近くへと呼び寄せました。その場面を読むと長谷寺がどれほど参詣の人々で賑わっていたかが分かります。
 当時のことですから、京都から日帰り参詣などは全く不可能で、お堂でも夜通し祈っています。それはもう、騒がしいほどだったようです。祈るしか手立ての無い時代に長谷の観音様の存在は多くの人々にとっておおきな慰めであり、頼みの綱だったことがうかがえます。
 その後、玉蔓は源氏との目通りがかない、いつくしまれます。今までの不幸を補うように源氏は我が子のように接してくれます。頭頭中将は我が子であるとは知らされず、源氏を羨ましく思って、自分にもどこかに娘がいないかと探させます。すると近江の君という娘が見つかるのですが、大変な田舎者で却って中将は恥をかくことになりました。このあたりは紫式部のユーモアのセンスでしょう。哀しい話、感動物語、そして滑稽談、物語の宝箱です。  源氏は玉蔓の顔をしっかり見ようと袂に蛍を隠しておき、ふわっと出して顔を見、とても満足するという場面があります。優雅で心ひかれる場面です。この時代、女性が顔を見せるというのは身体を許すというほど大変なことだったとか。イスラム原理主義みたいな話ですが…。典雅な王朝時代もいろいろ大変だったようですね。
 さて次は源氏物語に憧れ、源氏物語が読めるなら「后の位も何にかはせむ」と思い詰めた少女が書いた更級日記。菅原孝標の娘の作ですが、この人は道綱の母の姪にあたります。
 光源氏のような人に出会う夢の中で生きてきた少女は結婚によって夢と現実の大きな落差を実感します。現実を知った女性は憑かれたように物詣でへと傾倒します。そして、長谷寺にも来るのです。夢のお告げがあって、人生の転換を確信するのですが、夢の通りにすることができず、深い悔恨の情を記しています。
 懸崖造りの舞台から花の境内を見下ろすと、絢爛たる花景色の中、祈るしか手立てのなかった彼女たちの夢のかけらを見る思いがしてなりません。

 牡丹の名所は奈良では当麻寺、石光寺、金剛寺などが知られていますが日本の産地といえば島根県です。八束町大根島というところがあります。宍道湖の隣に中海にある島ですが、今は橋が架けられ、車でいくことができました。華麗な牡丹の島が大根島というのにちょっと違和感があります。実は大根が採れていた島ではなく、出雲風土記にも出てくる古い島なのです。本来は”たこ島”。たこ島が長い年月のうちに大根島になったのだそうです。風土記では大鷲がたこを落としたことからの呼び名だそうです。
 この島が牡丹の一大生産地となったのは昭和になってからのこと。江戸時代の初め頃にお寺のお坊さんが知り合いから苗をもらって細々と楽しんでいたそうです。それが、第二次世界大戦の時、もともと豊な島ではありませんでしたから男手が無くなると大変でした。そこで観賞用の牡丹を栽培しようということになったのだそうです。そうして育てた牡丹を全国に売り歩き、大根島の牡丹は大変有名になりました。奈良の古いお寺でもその頃のことを覚えている方がかつてはいらっしゃいました。「花売りのおばさん」と懐かしそうにお話だったのですが、その方ももう極楽へ。蓮と牡丹に囲まれていらっしゃることでしょう。
 島根県の小さな島の牡丹、戦争という悲劇がなければ全国に広がっていかなかったのでしょうか。出雲はかつて大陸への玄関口でしたから、牡丹もあるいは、もっとダイレクトに島へ伝えられていたのかも知れません。牡丹には深見草という別名があります。何かの本で読んだのですが、奈良時代頃、日本海の対岸には渤海という国があり、文化的にも交流していたとききました。渤海は何と”ふかみ”とも呼ぶそうです。もしかすると渤海から来た花というので深見草と呼ばれるようになったのではないでしょうか。
 渤海という国があったのは、丁度奈良時代のことです。渤海から出雲を経て奈良の都に伝えられていたのかもしれませんね。古代、さまざまな文物と共に典雅で薬効もある牡丹が伝わり、育てられていたのではないでしょうか。時代が下って昭和、花売りおばさんが登場して一大産地になっていったとは、雄大な花の歴史です。心して奈良の牡丹をこの春は楽しみたいものです。



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